10年

忘れないための個人的な記録。

帰りの会の準備をしていて、廊下にスキーウェアを取りに行ったとき、大きな揺れが始まった。担任の先生が机の下に入るよう叫んだので、みんなでバタバタと教室に戻った。机の下で小さく身をかがめながら、斜め後ろの友達と目を合わせていた。船に乗っているような大きくゆっくりとした揺れが、いつまでも続いた。教室の中はパニックになった。担任の先生が「あんた達の命は私が守るから!」と叫んだ。それで少し落ち着いた。ようやく揺れが収まった。それから体育館に避難した。

体育館は停電していて薄暗かった。みんなの親がそれぞれ迎えに来て、最後のほうまで残った。同じマンションに住む友達の親が迎えに来てくれた。10人ほどでマンションに帰った。マンションに着くと、住人がみんな下に降りてきていた。停電でエレベーターが動かず、12階建てで上層階は揺れが大きかった。駐車場で話している間にも何度も余震が来て、その度に目の前に止まっていたマイクロバスが倒れそうなくらいに大きく揺れた。

暗くなったので、それぞれ自分の部屋に戻っていった。家族で10階まで階段を登った。部屋の中は引き出しが開いたり小さなものが倒れていたけど、壊れたものはなかった。ベランダから見た街は真っ暗で、近くの市民病院だけが明るかった。何度も余震が繰り返しやってきた。僕が怖いと騒ぐと、もっと怖い思いをしている人たちがたくさんいるのだから我慢して、と母に怒られた。携帯電話のワンセグで少しだけ映像を見たけど、理解できなかった。ラジオから仙台空港が水に浸かった、という情報が聴こえてきた。やっぱり想像できなかった。何が起きているのか、全く分からなかった。

その日父は秋田市から北へ60kmほどの街へ出張に行っていた。高速道路が閉鎖され、信号が全て消えたなか、夜の9時過ぎになんとか帰ってこれた。ガスと水道は使えたが電気は復旧しなかった。晩ご飯にはチキンラーメンをそのままかじって食べた。ヒートテックを重ね着して布団に潜った。家族が寝た後も最後まで起きていた。怖くて眠れなかった。ようやく眠たくなったので、ラジオの電源を切って眠りについた。

朝になって電気がついた。テレビを見て初めて津波がなんなのかを理解した。仙台空港が波にのまれる映像を見た。山の向こう側でどんなことが起きていたのか、昨日の自分は全く想像できなかった。夏に遊びに行った仙台のアウトレットモールが津波にのまれていた。岩手では2週間前にスキーをしたばかりだ。身近な場所が大変なことになっていた。昨日騒いでわがままを言っていた自分を恥じた。

秋田では震災の被害をほとんど受けなかった。たくさんの支援が山を越えて太平洋側へ届けられた。東北6県の絆を感じた。県庁の前では支援物資が受け付けられ、たくさんの物資が高く積まれた。引っ越しの荷造り最中だった僕も、衣類や消耗品を段ボールに入れてそこに届けた。秋田市内のインフラが完全に復旧してからも、スーパーやガソリンスタンドは混乱していた。余震も変わらずやってきた。1週間ほどは常に地面が揺れてる感覚があった。

それでも日常は少しずつ戻った。3月16日には黙祷の後、小学校で姉の卒業式があった。3月21日は秋田から引っ越す日だった。ドタバタしたがなんとか荷造りを終えた。秋田空港を離陸した後、日本航空から手書きのメッセージが配られた。被災者へのお見舞いの言葉が綴られていた。自分は被災者ではないけど、なんだか心強かった。

東日本大震災から10年がたった。いまだに被災地へ足を運ぶことができていないが、そこにあの日、自分の想像力ではたどり着けない現実があったことを、忘れてはいけない。